父の日に考える、父であること
父の日の今日は仙台に出張なので、前日にお祝いしてもらったんですね。
したら、子ども達から、「パパしゅきー!」っつって、チュッチュされまくるわけですよ。
ああ、こんなのちっちゃいうちで、もうあっという間に、抱きついたりしてくれなくなるんだろうな、と思うと、貴重な瞬間だなぁ、と。
で、振り返ると自分が子どもの頃は、一切父親に抱きついたことも、チュッチュしたことも、ないわけです。
僕の父親はこの国の当時の父親同様で、育児は完璧に母親にアウトソースしていて、仕事と趣味に没頭していました。
僕にとってそれは当然であったし、特にそれで寂しいとか、悲しいとかは一切なくて、そもそも期待していないわけでした。
ただ、アメリカに留学にいった時に、ホストファザーが育児にめっちゃコミットしていて、子ども達から愛されていて、尊敬されていて、それが衝撃で。
アメリカNo.1!みたいな典型的な田舎のアメリカ人で、僕からするとそういうところが嫌いだったのですが、まあでも、父であるということ、そのモデルを示してくれた、という意味ではすごく感謝しています。
で、いざ自分が父になった時、どんな風になりたいか、と思ったら、やっぱり子どもには愛されたくて。
そのためには、とにもかくにも、コミット(関与)だ、と。
よく「ママのおっぱいには勝てない」とかいう人いるんですが、大ウソだと思うんです。
子どもは共に過ごした時間が、関わった量が多い人に懐くだけで。
血とか関係ないと思うんです。
ほんのちょっとしか時間投下しないで、「やっぱママには勝てないよ」じゃないんだよ、と。
そんなわけで、子育てにかなりコミットしてきたわけで、経営者やりながら、毎日19時には帰って育児と家事やって、というのは当たり前のことではあるけどやっぱり大変で。
大変なんだけど、大変なだけ、返ってきてくれる、というか。子ども達はなついてくれ、愛情を持って接してくれて。
父業がこれからどうなるか、は分からないのだけども、僕は父である自分自体も肯定したいし、後悔したくないのです。
父らしい父を知らない自分が、父として懸命に「振る舞う」ことで、父を獲得していく。その過程をメタ的に楽しみながら。
Happy Fathers’ day.