45歳になりました・個人的な今後の話
45歳になりました。
お誕生日おめでとうメッセージをありがとうございます。
全てにお返事差し上げたいのですが、それができず、代わりにこちらに感謝の気持ちに代えて、個人的な想いを記させてください。
いつものように、この1年の振り返りをした後、今後をどう過ごすか、を書きたいと思います。ただ、今回は一般の知らない人々に向けて、というよりも、友人たちへの私信だと思って読んでもらえたら、と思います。(仕事に興味ない人は、前半飛ばしてください)
【44歳の仕事上の達成】
44歳は、主に以下のようなことを(自分の力というより周囲からの支えのお陰で)できました。
(7年間の政策提言を経て)日本版DBS法の成立
ベトナムから来たリンちゃんが殺されたことをきっかけに、日本版DBSの政策提言をしたのが2017年。たらい回しされまくりましたが、こども家庭庁の発足で勢いづき、何とか成立まで持っていきました。応援してくれたみんなに感謝。これで性暴力の被害を受ける子どもたちが少しでも減らせたら。
(2年半の政策提言を経て)こども誰でも通園制度の成立
「130年間、働いている家庭向けの保育園を、すべての子どもたちに開く」
この途方もないビジョンを思いついたのは、児童虐待を減らすためのセンターピンは何か、ということを探し続けたことから。
児童虐待の多くは、周囲に気づかれません。逆に、毎日通っている保育園は、子どもの様子の変化に気づける。ならば、すべての子どもが保育園に通えれば、虐待を確実に減らせます。
そこからわずか2年半で法案成立。僕の政策起業家人生の中で、最も多くの人々の生活に影響する変化を生み出せた制度変革だったと思います。多分、20年後の日本人は、保育園が限られた家庭しか行けなかったことを、信じないでしょう。
体験格差を解消する「こども冒険バンク」をスタート
支援先の子どもから「海を見たことがない」と言われたことをきっかけに、体験を日本中の子どもたちにプレゼントできる仕組みをつくろう、と立ち上がりました。事業をつくる中で、経済同友会やサントリー、PWCさん等、これまでにお付き合いできなかったような大きな企業さんと手を繋がせてもらいました。本当にありがたいです。NPOと企業がパートナーシップを組むことで、大きなことが成し遂げられることを体感しました。心より感謝。
フローレンスこどもと心クリニックで女性のための心療内科&不登校外来をスタート
医療だけでなく、「医療で社会を変える」ソーシャルアクションクリニックである、フローレンスこどもと心クリニック。
社会問題である不登校の問題(こどもの問題ではなく、社会の問題)を、医療的アプローチで関わっていこう、と。また、虐待や心中の要因の一部に、母親の精神疾患等があることから、より上流である女性のメンタルヘルス問題に貢献するべく、女性のための心療内科を始めました。それもこれも、良い医師たちが集まってきてくれているから。感謝。
傾聴型生成AIと専門職による相談支援「つながりよりそいチャット」を山形市より受託してスタート
AIを活用して、孤独孤立問題にアプローチ。最初は「AIに相談なんてするの?」とか思っていたけど、「みんな全然する」ことを知ってびっくり。これまでは相談員のキャパによって助けられる人が限定されていましたが、もっともっと多くの人々を助けられるじゃないか、と証明されました。
保育など、リアルな対人援助のイメージが強いフローレンスだけど、テクノロジーを活用して福祉の先端を切り拓いていく存在になりつつあるのが嬉しいです。
「こども宅食赤ちゃん便」を全国に広げる取り組みを開始
2017年に始まった「こども宅食」のスピンオフ。赤ちゃんのいる家庭におむつやベビー用品を持っていきながらアウトリーチする取り組み。同様の取り組みは明石市や品川区などでもやっているのだけど、モノを渡して終わりになりがちなところを、お家に入って赤ちゃんを挟んで1時間くらいダベってコミュニケーション取るところがポイント。
そこから生活課題を共有し、各種支援に自然と繋げていけます。これは僕が思いついたのではなく、佐賀サテライト拠点のスタッフが思いついて勝手に始めてくれたのが嬉しかったところです。
テクノロジーで医ケア児の新しい可能性を拓く「パラeスポーツフェスタ」を開催
四肢が動かない医療的ケア児たちも、視線入力や特殊スイッチがあればゲームやアートを楽しめる。その入口となるeスポーツの大会をセガさんらの協力を得て開催。
僕はほぼ何も関わらずに、スタッフたちが大会をプロデュースしてくれたのが心強かったです。
(13年間啓発してきた)男性育休取得率がクリティカルマスである30%を超えた
「イクメンとか寒いわ。父親が育児するのはあたりまえだろ」とdisられながら、厚労省イクメンプロジェクト座長として制度の充実と啓発をし続けてきた。13年間、泣かず飛ばすだった男性育休取得率が、「これを超えたら後はがっつり伸びる」というクリティカルマスである30%を超えた。ようやく、という感じですし、ここが一区切りだな、という思い。イクメンという言葉もそろそろ店じまいして、新たな社会的記号を生み出していかないとな、と。
振り返るとこの10年間で16本の法律を作ったり変えたり、という政策提言をしてきたわけですが、今年の「こども誰でも通園」が最も大きな達成で、何というか、やりきった感があります。22歳で保育も何も知らないで病児保育を始めたよそ者の若者な愚か者が、その前半生で、あるところまで辿り着いた、という感慨を持ちました。
【44歳のプライベートの達成】
妻のこまざき美紀が、都議になれるよう支えた、というのがハイライトでした。もちろん自分がしたことは僅かで、ほぼ彼女の努力によるものですが、片働き状態を抜け出せてほっとしたのは正直なところ。来年選挙がまたある、という状況は考えたくありませんが。少なくとも1年、都民のために思い切り汗をかいてもらえたら。
後は小6の息子の中学受験に相当コミットしました。自分の中学受験の時に、父親は1ミリも関わらなかったのですが、その時の自分がいてほしかった父親を演じているのかもしれません。
【44歳で気付いたこと】
やったことを並べただけだと、ずいぶん順調だったように見えますが、僕にとっては人生で指折りに辛い1年でした。
僕は少しでも多くの子どもや親の力になりたいと思ってこの20年近くを走り続けてきました。NPO用語的に言うと、少しでも大きなインパクトを出そうと全人生をかけて生きてきました。
ともに働く仲間たちも経営者である僕が命かけて走っているので、それはもう必死で伴走してくれていました。
その中で、バーンアウトして辞めてしまった仲間がいました。誰よりもフローレンスのビジョンにコミットしてくれていた仲間でした。
そう、自分が燃え尽きさせたも同然です。自分の「少しでも大きなインパクトを出さねば」というエゴが、大切な大切な仲間を傷つけたのです。
大袈裟な言い方ですが、「社会を救おう」と頑張ってきた結果、身近な大切な人を救えていないどころか、置き去りにしていたのです。
20年前に自分がなりたかった「社会を変えられる人」にある程度なれたけれど、そこは荒涼とした荒地で、寒風が吹き荒んでいました。こんなところに来たかったのだっけ。
【これまでの自分を手放す】
今までの自分では、いられない。
かといって、どんな自分になりたいのかも、分からない。
そんな思いが自分を掴んで離さなくなったので、45歳の自分は一旦立ち止まってみようかと思います。
迷ったり、考え直したり、全然違うことをしたり、あるいは何もしなかったり。ずいぶん会ってない人と会ったり、行ったことのないところに行ったり、もしかしたら副業的なこともしてみるかもしれません。全然分かりませんが。
おそらく個人としては、44歳で成したことの半分も達成しないでしょうし、あるいは何も達成しないかもしれません。
これは僕にとって、怖いことです。これまで20年近く、変化と成果を生み出すことが自分に課せられた使命であり、人生そのものだったからです。そうでないのならば、生きている意味などあろうか、という脅迫観点が心の底にこびりついているのです。きっとそうでなければ、自分が自分を愛せないのでしょう。そんな呪いを手放していけるのか。
幸い今勤めている団体のいずれも、僕が立ち止まろうと、迷おうと、リーダーシップを振るわなかろうと、回っていく優秀な職員の方々がいます。社会のインフラとしてはしっかりと使命を果たし続けてくれるでしょう。そこはどうかご心配なく。
【45歳の抱負:なし】
というわけで、毎年「この1年はこれを実現するぞ」という自分との約束や宣言を書いているのですが、今回は何も書きません。何も書けないと言い換えても良いかもしれません。
一旦未来のことは空にして、どんなふうにありたいのか、今ここで何がしたいのか、という対話を自分とし続けていこうと思います。これまで、自分のキャラや仕事の制約からできなかったような小さな試みをしながら。
こんな風な、何のオチも学びもない文章を無防備に誰かに晒すことも、自分にとっては小さな挑戦です。
四捨五入したら50にもなる年なのに、人生の後半戦をどう生きたら良いかも分からず、茫漠とした虚無の砂漠に投げ出されている姿を開示することが、もしかしたら似たような想いをしている人の役に少しでも役に立てるとしたら、少しは心の慰めにはなりますが、何の役にも立たないかもしれません。
友人各位におかれましては、僕のぼやっとした相談に乗って頂くこともあるかもしれませんが、その際はどうかよろしくお願いします。
最後に、45年前にお腹を痛めて産んでくれた母と、家族のみんなに45年分の感謝を。