娘の誕生日に思う、手放すこと・親に「なる」こと
9月17日は娘の誕生日。自分と1日違いの日に生まれてきてくれた娘に、運命的なものを感じる。
彼女の誕生日に丸一日埼玉レイクタウンで過ごし、夜一緒に寝る時に「今日何が楽しかった?」と聞いたら、「今日全部!」と言ってもらえて、疲れたがじわじわ嬉しかった。
【育児についてつらつらと思うこと】
仕事の世界では時間が最も貴重な資源である。10分の時間を無駄にしたくないから、電車じゃなくタクシーにする時もあるくらい。
しかし育児の世界では、その希少な資源を無尽蔵に消費する。仕事の世界の価値観しか持ち合わせていないと、まるで、希少な資源を奪われてしまったかのように感じる。
一方、育児の世界では、かけた時間と労力によって絆が育まれる。子どもは可愛い時だけではない。しんどいことも憎らしいことも面倒くさいこともある。それをひっくるめて、「関わる」ことによって、愛情が返ってくる。
子どもから愛されるだけではない。自らの中の愛もまた湧き出ることに気づく。
【親になること】
この2つの世界のバランスを取ること、また調和と統合に我々は悩み、課題を抱える。
しかし、「親になること」「親であること」とは、こうした統合と葛藤のプロセスを経ることによってこそ、辿り着けるものではないか、と自分に言い聞かせる。
このプロセスの何が辛いかと言ったら、手放す必要があるからだ。「本当だったら、もっとやれた可能性」「自分が満足しきる水準」を、手放すこと。
それは「諦める」とはニュアンスが違う。自分の中の執着に気づき、それを認め、ゆっくりと手を放していくこと。
起業家として23歳から全力で走ってきて、全力だったからこそ成果も出て、それゆえ全力を出し切っていないと不安で罪悪感を持ってしまう。
気づかないうちに蓄積されてきた、無色透明なヘッドギアに、娘は、子どもたちは、関わることを通じて気づかせてくれている。
それは不安にドライブされた生き方であって、幸福にドライブされた生き方ではない、と。
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娘は8歳になり、息子はもうすぐ6歳、小学校1年生で、どんどん話が普通にできるようになっていってる。
自分はこの子たちの親として、どんな親になっていたいか。大仰な親としてのビジョンはないけれど、笑いながら親であることに試行錯誤する姿をイメージしたい。
楽しいから笑っているだけではなく、笑っていると楽しくなってくるように。
葛藤も迷いも抱えながら、それでもこのプロセスこそが、自らに与えられた、「親になる」過程と機会だと信じて。